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鉄炮小僧
 1575(天正3)年、織田信長、徳川家康の連合軍が天下一と唱われた武田の騎馬軍団を撃破したのは、鉄砲の威力だといわれ、用意した銃は3千梃ともいわれている。
 当時の鉄砲は種子島と呼ばれる火縄銃であった。銃身の先から火薬と鉛の丸玉を入れ、棒で隙間なく突く。元寄りに銃身と繋がっている火皿というものがあり、通常火蓋で閉じられている。火蓋を開き導火用の火薬を入れ、引き金を引き、火縄に付けた火を移すと銃身の火薬に引火し、ズド〜ンと玉が飛び出る仕掛けだ。打ち上げ花火と同じ要領である。現在の銃とはよほど違っている。現在のライフル競技では、300m先の的にほとんど適中するようだが、火縄銃では、狙って当てられるのはせいぜい30mがいいとこであろう。殺傷力は、30m先の杉板ぐらいは打ち抜けるが、樫の木などの目の詰まった厚板は貫通できない。それでも鳥は落とせるし、人の頭や急所に当たれば即死させることも可能なのだった。
 
1543(天文12)年八月。種子島の西に、西の村と呼ばれる小浦がある。
 朝早く目覚めた「直助」は浜に出てみた。
 大時化の後の浜には日頃目にしない珍しい物が打ち上げられている。密かに期待していた。夜が明け切らぬ浜には、根切れた海藻や木っ端や藁っぽが砂浜にばらまかれていた。
 
 直助。当年13歳。痩せた体躯ながら赤銅色に日焼けした素肌を薄い袖なしのチャンコだけで被っている。下半身は紐に縫いつけたもうしわけ程度の小布だけ。
 敏捷な手足を忙しく働かせて、焚きつけになりそうな枯れ枝をひとところに集めていた。なにげに海を見遣ると、ぼんやりと明けていくうねりの残る海が見え、その海に、直助がいまだ見たこともない大きな帆をつけた船が一艘浮いていた。
「なんじゃいやぁ、あのイガイ船わぁ」
 思わず甲高い声を上げてしまった。よく通るまん丸い目を、いっぱいに見開いてもう一度透かしてみると、その船から今まさに小舟が人の手で降ろされようとしていた。
「船やぞう、おっきい船が沖の瀬に浮いとるわい。父ぅに告げにゃぁならんどぅ」
 中国のジャンクのような船だったという。船には百人余乗っていた。当時の「西村」の村長であった織部丞に告げられ、船客であった明国の人との筆談で、おおよその顛末が理解できた。この船の人々は西南蛮種の国(ポルトガル)の商人だと判った、積んできた荷を異の国の物品と交換し自国で売り、利を得る貿易商人達であると。
 織部丞はすぐさま、時の種子島の領主である、種子島時堯(ときたか)に報告した。種子島時堯は数十の小舟を出し、この漂泊船を曳航して、赤尾木という津(港)に入れた。
 この赤尾木の津に、法華の僧が居り、名を忠首座といった。筆を好くし、文字に明るいところから、通訳になった。それが記録され今も残っている。
 
 その長さ二、三尺、その体は中が通っており外がまっすぐで、質がすこぶる重い……中略 その一穴から火を放つときは、すなわちたちどころに当たらぬことはない。……中略。これに触れればたちどころにその魂をうしなう。などと記述されていた。 鉄炮のことである。

「その火玉の棒を購いたし」
 時堯(ときたか)はポルトガル人フランシスコとクリストフェが手に持つ鉄炮を指差しながら言葉を吐いた。
 時堯はなにがなんでもこの鉄棒を手にいれる気である。手元にある金粒を部下の同心に持って来させた。駆け引きなどするつもりはなかった。ありったけの物を出してでも手に入れる気であった。その価値があると鑑ていた。
 時堯は何とはなしだが人づてに鉄炮のことは知っていた、知ってはいたがこの目の前で見る鉄炮は想像以上の物であった。細部まで見事な造りである。理屈にあっていた。これほどの作りをするためには正確な図と鍛冶の技術が備わっていなければ造作はできない、一目みてそれを悟った。同じものをつくるには、薩摩辺りの優れた刀工でもなかなかに難しい技だと思えた。
 
 そして、二梃の鉄炮を手に入れた。金二千といわれている。
 火薬も玉もたっぷりと購い。家臣に撃ち方の指導も依頼した。
「小僧っ、鉄炮撃ちに出掛けるぞい」と時堯が誰にともなく呼びかけた。
「はいっ 殿さん いつでもいけます」とすぐに甲高い、幼い声が応じた。
庭の隅から小走りで小さな躯が駆けてくる。手っ甲脚絆を厳重に巻き、甲斐甲斐しく鉢巻きまで絞めた姿が妙に可愛い。直助である。
 この二人、鉄炮を求めた日から雨の日以外は毎日のように山へ出掛けては鳥や獣を撃っている。三ヶ月もたった今、二人とも、狙った的は百発百中するまでになっていた。特に直助の進歩が著しい。小枝を払って細工した鉄炮支えを腰から抜き取り、まず標的を睨み据える。気が充実して来るとみるや、玉込めした鉄炮を枝の二又に乗せ、瞬の狙いで引き金を引く。引火して玉が飛び出るまでに間があるが、その間こそがもっとも集中するときで、的に向かって行く玉そのものに意識を仮託していく。
 時堯とて同じ心持ちで撃つのだが、何度も撃つ内に心根に濁りがでてくる。集中力が切れてくるのだ。だが、直助は、十が十とも同じ心の持ちようを持続させる。的を比べてみるとその違いは一目瞭然だった。時堯とて、的をはずすことはないが、直助の的には一つの大きめの穴だけがある。
「なんて奴だ、おまえは」とまじまじと直助をみやる。
「あそこの枝に鳥が止まっているのがみえるかや」
「はいっ、メジロのつがいです」
「あれを撃ってみろ」
 直助はしばらくの間目を瞠って彼方の鳥の止まっている枝をみていて「嫌です」といった。
「嫌じゃと、小僧。何故にじゃ」
「メジロなど撃っても喰う肉がない。それに、あれは好い声でなく可愛い鳥です」
「可愛いから、撃つのが嫌なのか。お前は山猟師になりたいというとったなぁ、猟師がいちいち獲物に情など掛けておったら一人前の猟師になれんであろうが」
「おれは一人前の山猟師になります。鳥も獣も撃ちます。けんど撃ちとうない時は鉄炮は置いときます。殿さま、そんでいかんでしょうか」
「なんも、いかんことなどないぞよ、健気なものよ。したが考えてもみろ、この二梃の鉄炮は天下にこの二梃しかないのだぞ、儂がありたっけの金粒を差し出して手に入れたのはお前も知っておろう、そちがいくら鉄炮になついても、この鉄炮をそなたに呉れてやるわけにはいかんのよ。解るかや」
「はいっ、判っております。でんも殿さまは、この鉄炮とそっくりなんをお造りなさると申されました。おれはその鉄炮が幾つもいくつも出来たらその一つを購おうと考えておりますが、ええんでしょうか」
「ははは、そうか、儂が話しておったのを聞いておったか、聡いやつめ。腕のよい刀鍛冶を呼んであるにより造らせてはみるが手強いからのう、何時出来るかは誰も判らぬわい。したが小僧よく聞け、儂がお前に鉄炮を慣わしたのは、山猟師にするためにではない。鉄炮というものは、人を撃つために創られた武器じゃわい、戦ごとの折りに、この鉄炮を百梃も並べて撃てば五十もの兵を一気に倒せる恐ろしい武器になるわい。そなたもそれは解るであろう。現にのう、先日に漂着した紀の国の将がこの鉄炮を譲ってくれと言い出したわい。金粒は幾らでもだすと言うとる。それにな、小僧。お前を召し抱えたいとも言うとるよ。鉄炮方の教授として紀の国へ来てくれと、兵の頭の扱いをするゆえ、是非にも来てくれとな、まだ鉄炮も作らんうちから気の早いことじゃが、あの人らぁはもうはや、この鉄炮を見本にしていつでん作れると思うとるようだ。儂は、直助は鉄砲は一人前でもまだまだ子供ゆえまだ遠くへはよう行かせれんと言うておいたがのう」
「おまえはこの島で生まれ、海の漁師か山の猟師になるんはあたり前のことじゃで、そう考えるんはなんもおかしなことじゃないわい、したがのう、ひょんなことからこの鉄炮ちゅうもんの撃ち方を覚えてしもうたわい。天下広しといえども今は儂とお前だけが鉄炮を扱えるんじゃ。この技を持ってすれば猟師でのうても暮らしが立つのは明らかなんじゃよ。なんとのうそなたも解るであろう。まぁ、あと二歳(ふたとせ)もすれば鉄炮鍛冶の進みもはっきりと見えてくるは必定。おまえも行く末を心せなならんとこじゃぞよ」
 
 種子島に漂白した将とは、津田算長(かずなが)といって、紀州は小倉の荘の領主で、後に津田流砲術を編み出し、祖となった者である。
 種子島時堯に断って請い、鉄炮一梃と直助を伴い紀州の根来寺に預けた。
 直助14歳の時である。
 早速、根来の行人衆を集め鉄炮の扱いとその威力を誇示してみせた。
「こんな小わっぱが何ほどのことがあるか」色だけは黒いが、あどけないつぶらな瞳をきらきらさせた痩せた小さな直助をみて、皆たがをくくっていた。
「そこな渋柿を撃ってみいや」と算長が先の木の上にまばらに残っている残り柿を指していった。
「はい」
 直助は腰に差していた木の又を抜き、そこに鉄炮を乗せると、さして構えるでもなく火蓋を開き、無造作に引き金を引き火縄を火皿に落とした。間が少しあったあとドーンと腹の底に響く音がしたと思ったら、木にぶら下がった柿の一つが弾けるように飛び散った。
「おおう、なんと」見る者みな肝を潰した。柿が自分の頭のように錯覚し、思わず頭を抱えた者もいた。
 直助は流れるように慣れた手つきで、火薬を詰め、6匁の鉛玉を落とし、棒で突き、狙い、次々と柿の実をはじけさせていく。
「もうよい、もうよい」慌てて算長が止めた。
「どうじゃ、みなのもん。これが鉄炮というもんよ、頭を抱えた者もいたが、そうよ人の頭に当たりゃぁ渋柿同様あの通りくじゃけるにぃ、おどろしいぞよ。考えてもみよ、槍や剣の達人といえども鉄炮を持つこの小僧の直助に適わんに」
「そこでじゃ、儂は、堺の刀鍛冶に申して、この鉄炮を仰山造らせようと思うとるよ。皆に与えるによって、この直助を師匠にして撃ち方をよう覚えろや」
 
 津田算長はすぐに行動した、堺鍛冶の芝辻清右衛門という者に製作を依頼し、清右衛門は日夜苦心のすえ数ヶ月で1梃作り上げたという。
 種子島に届いたこの鉄炮は「鋳造」ではなく、砂鉄を精錬し、よく鍛造した後、筒に捲いていく製法であった。当時の堺あたりの鍛冶技術でも充分対応できた。後は精度の問題である。ほんの僅かな狂いが真すっぐに飛ばない原因になる。歴史上、鍛冶職人が始めて真っ直ぐにこだわった手仕事になった。
 出来上がった鉄炮を算長は約束通り行人衆に配っていった。鉄炮軍団「根来衆」の誕生である。
 直助にも与えられた。出来具合のよさそうな鉄炮を何度も試射して選んだ。算長はそれを許した。根来寺の脇にある長家建ての住まいに持って帰り、飽きもせず毎日磨いている。磨きながらこの鉄炮の弾道を思い描いている。
 当時の鉄炮というものは、真っ直ぐに飛んでいくようにみえても決して真っ直ぐではない、各個に癖があり微妙に逸れるものだ。1mあまりの銃身に前目あてと先目あてという今でいう照準がついていて、その目あてと的とを目線で結んで狙うわけだが、玉は右へ左へと銃身の癖によって逸れていく、がその逸れ方が一定であれば良い銃なのである。理由は言うまでもない。
 長家の直助のもとへ「鈴木孫一」が訪れた。雑賀衆の頭目である。逢髪を細引きで結び、脛までしかない一重の赤い着物を荒縄で締めている。大柄な男である。日焼けした太い二の腕が逞しい。
「坊っ」と直助を呼ぶ。
「鉄炮の数もだいぶ揃ったろう、明日からみなに撃ち方を教えろやい」懐からいわしの干物をぞろりと一掴みとりだし「喰え」といいながら自分がかぶりついた。これまた持参の酒徳利からじかに口をあてごくごくと喉を鳴らして飲む。豪放な男だ。こんな形(なり)だが雑賀(さいが)の城の若様である。紀州は守護の畠山が内紛の繰り返しで力が弱くなり、その分豪族の勢いが盛んになった。ここら辺りは根来寺の宗徒である根来衆と呼ばれる連合集団と、念仏衆の一向宗徒の集合である雑賀衆との勢力が一頭抜きんでている。ときには争い、ときには連合を組んでいる。「鈴木孫一」はたまたま直助の鉄炮の試射を実見して一ぺんで気に入ってしまったのだ。自分の配下全員に鉄炮を持たせることを決意した。算長と話し合い、金を出し合うことで折り合いがついた。
「鉄炮を直さにゃならん」と直助がいう。
「ほう、よう出来とるに、あれでも駄目かいや」
「一つ一つよう見んといかん、真っ直ぐ飛ぶのんが少ないから、鍛冶屋を連れて来て撃つ所を見せて直すんじゃ。それから教えるわい」
「そうか、お前の好きなようにせいよ、明日全部の鉄炮を集めて、試射しようのう」と孫一が躯に似合わぬ優しい声でいう。
 20梃の黒光りする鉄炮が寺の広場の隅に並べられた。その後ろに根来と雑賀の行人衆100人ほども居並ぶ。前方30m先に10本ほどの杭棒が立ち、それぞれ札が張ってある。墨で人の顔ほどの丸が黒々と描かれている。的である。
「坊っ、皆に師範したれや」孫一が野太い声でいう。見本の試射をせよ。というのである。
 直助。鉢巻きを凛々しく絞め、脚絆にわらじ。口を一文字に引き締めて、居並ぶ皆の前に立った。小さな躯に約1貫目(3.75kg)の鉄炮を担ぎ、降ろすと、ゆっくりと火薬を入れ、玉を込め、かるか(鉄の突き棒)で突いてみる。皆、目を皿にようにしてみている。山仕事で鍛えられた足腰、力自慢の者らである。普段なら下卑た野次のひとつも出るところだが、直助の邪魔にならぬよう取り囲み、物も言わぬ。もちゃけた頭に一部始終を記憶しようとしている様子が見て取れる。鉄炮を習うということが己にとって、今後どんな意味を持ってくるのかが皆解っている証だった。小さな小僧だが、この中で唯一鉄炮が撃てる師匠様の一挙手一同が新知識なのだ。
 直助が撃った。的に当たったのが誰の目にもあきらかだ。
 「おおぅ」驚嘆の声が上がる。
 「当たった的を持ってこい」孫一が手に持った半弓の鞭を一振りさせて言った。
 ど真ん中に穴が空いていた。「見事じゃわい」一声うなりながら孫一が言う。
 「皆のもん、20人前へ出ろ、同じようにやってみろや」
 みよう見真似、おっかなびっくりで玉込めしている。直助がひとりひとりに丁寧に教えていく。
「玉込めしたら10人づつ前に出て撃ってみろや」
どど〜ん、ときならぬ大音響が轟いた。硝煙が流れ、見透かすと、ただのひとつも的に当たっていない。次ぎの10人が繰り返すが、誰も的に当てられない。
次々と入れ替わり100人が取りあえず撃ってみた。辛うじて的に当てた者は3人だけ。 当てた者はおおはしゃぎで自慢していた。
 中に、当たらぬ腹いせに鉄炮を地べたに叩きつけた者がいた。孫一はその者に近づき、襟首を掴むと頭上高く差し上げ地へ放り投げた。
 「ぎゃぁ」叫び声が出た。
 「大事な鉄炮をよくも投げよったな、この腐れ瓢箪奴」と言いながら孫一は、倒れて腰をさする者になおも弓で打ち据えた。
「的に当てし者前に出ろや」と孫一が言う。
「おう」と幾分得意げに3人が進み出てきた。
「もういっぺん撃ってみろ」
的にかすりもしない。失笑が湧いた。ことさら大きな声で笑う者もいた。
「笑うなやぁ 始まりはみなそんなもんや 毎日やれば嫌でも上手うなるわい のう
師匠。鉄炮がまんだ少ないよってに、一つの鉄炮に10人決めろや、同じ鉄炮じゃないと癖が判らんよってに上手になれんとおもうぞよ」
 雨の日と風の強い日を除いてはほとんど毎日訓練がつづいた。鉄炮の数も揃ってきた。
 半年も経った頃、念願だった一人一梃の割り当てができるようになり、その頃になると筋の良い者と悪い者の差が出てきた。
 何度撃っても的に当たらぬ者がいる。余りにひどいので孫一がその者を呼び、目を調べてみた。検眼したのである。10m先に丸と三角を書いた板を置いて順番に何が書いてあるか問うてみると、でたらめを言う。
 「そちゃ、近か目かや。早ように言わんかい。近か目では鉄炮撃ちは無理じゃわい。口惜しかろうが、玉運びのほうに替われや」
 
 評判を聞きつけて、見学を願い出る者が数知れず来る。遠くからはるばる修行を願い出る者達もいる。孫一はことごとく断った。未だ未熟ゆえ、見せるに恥じだと言うのがその理由なのだが、その実は技術の流出を恐れたのである。
 孫一は、その頃には、はっきりと、鉄炮軍団として、組織された軍団としてのデビューを目論んでいた。
 
 「戦じゃぞい、みんなぁ。石山(本願寺)から加勢を頼む云う使いが来たわい。三好党の松永勢との戦が始まるよってに、一番大将で石山を守ってくれ言うて来たわい」
 雑賀党の若衆長屋にある中庭に主だった者を集めて孫一が言い放つ。
 当時、京の都で飛ぶ鳥を落とす勢いにあった松永弾正は一向宗(本願寺)嫌いであった。恐れを抱いた石山の一向宗徒が武装を強化し、噂の鉄炮軍団に加勢を要請したのだ。
 「直助よ、主は始めての戦場(いくさば)になろうけど、怖うはないかや」孫一がいまや18歳になる直助を名指して言う。
 「儂も戦場に行くんですか」
 「あたりまえじゃろうが、鉄炮奉行の主が行かんでどうするんじゃ」
 「儂は刀を振り回したことが一度もありませんぞ。戦になりゃ鉄炮の玉を撃ち尽くせば、刀で喧嘩せにゃならんでしょうが、目の前の人を刺し殺すなんぞわしにはできませんぞ」と直助。
 「なにを腑抜けたことを申すぞよ。一人前の形(なり)の若衆が婆さまのようなご託を並べるなや。心配するな、大事な鉄炮隊をむざむざと戦の藻くずにはせんわいな。ひとり一人には二人の徒士が付くわい。ぬしには特別にこの孫一の旗本が守るによって、そちが死ぬときはこの孫一も共に死ぬときと思うとれやい。孫一はな、あんな腐れ松永の軍勢がたとえ百人撃ち掛かってきてもびくともせんから安心しとれや」
 
 琵琶湖畔にある一向宗の山寺「薬千寺」を松永弾正の軍勢3千が取り囲んだという報せが届いた。
 逢阪の石山から衆徒500人、孫一率いる手勢600人。内、鉄炮隊200人が三日で到着した。
 薬千寺に詰める僧兵は300人足らずと知れている。
 
 松永方の将、瀬戸某は本戦をするつもりはなかった。3千もの武装軍団で取り囲み、松永の勢威を見せれば、さしもの勢いの一向宗でも少しは萎縮するであろうとの判断であった。が、ことはそう容易くはならなかった。
 報せを受けた石山本山では過剰とも言える反応を示した。全国津津浦々へ伝令を飛ばし、仏難を訴え、結集を呼びかけたのだ。
 「なまんだぶ」と書かれた白幟をはためかせて、竹槍や鎌を携えて。全国から参集してきた。遠くから来た者ほど殉教の意志が強かろう、との宣伝が伝わり、あっという間に1万もの宗徒が石山に集って来たといわれる。しかし人数があっても、いくさに関しては烏合の衆である。いくさは組織で闘うものであり、100人、200人の兵士が激突し、勢いのある方が圧していく。相撲の寄りと同じで、一度浮き足だった衆は容易に立ち直れないものだ。喚声を上げ、小走りで寄り合う最初のせめぎ合いがいかに大事か、いくさ慣れした将は熟知している。緒戦に歴戦の鍛えられた精鋭の武士団を集中させ、一番槍を付けし者には特別の恩賞と栄誉が与えられる。
 いくさ慣れし、鍛え上げられた武士団が率いる100人に二倍、三倍の烏合の衆が挑んでも一瞬に毛散らかされるのはこの理由からだった。
 
 孫一の軍は逢阪の石山から先導に従い、夜を日を継いで鞍馬山を越え、名も知れぬ峠をば幾つも越え三日目の夜半、琵琶湖畔の西、間野の辺りについた。
 様子見の者を出し「薬千寺」を探らせると、松永方は寺の回りを大まかに取り巻いてはいるが本隊は寺の正面にびっしりと詰め、篝火を焚き、飯を食い、くつろいでいる様子。裏山からなら岨道を通ってなんなく寺へ入れるらしい。
 松永方は油断している。
 はるばる石山から応援が来るなどとは夢にも思っていない。それでも孫一は、鉄炮が人の目に触れぬようにと菰で巻き、鉄砲隊を四隊に分け、両脇から護衛で囲んだ。戦闘になるまで、鉄炮の存在を知られたくないのだ。
 寺に入っていくと不安気な僧兵達の顔にたちまちに喜色が表れた。
 孫一の軍勢は、当時としては珍しい、鉄炮を意識した堅木に黒塗りを施した胴丸鎧を孫一以下全員が着込んでいた。いわゆる黒揃えである。それが味方にとってはいかにも頼もしい戦闘集団に見えるのだった。それも孫一の演出である。
 「ひとまず湯漬けなんど喰ろうてくつろげや。腹減りでは強い戦はできんぞ。物見の者が申すに松永方にものものしい動きはないよって、一寝入りはできそうじゃわい」孫一は云い。悠々と鎧を脱いでみせた。
 
 早朝、日の出ぬ内から孫一は動いた。
 門を出ると急な長い石段があり、石段の尽きた辺りの広場に、松永の兵がびっしり詰めているのを見届けると、鉄炮隊の配置に掛かった。
 200人の鉄炮隊を40人づつ五班に分け、それぞれに頭を置いた。先が2班、後が2班、残る1班に選りすぐりの名手を集め、それを孫一が手元に置き、そこに直助も入った。
 「みなよう聞けぇ、儂らは熊野明神の化身八咫烏(やたがらす)の子孫じゃわい、何人が相手でも恐れることはないぞぅ。いま下を見た来たらばうじゃうじゃといくさ人が群れておったわ、けんどおそれるなぁや、儂らには日頃鍛錬してきた鉄炮があるぞょ、この始めての戦(いくさ)に火の玉ぶちかまして「松永」の青瓢箪をば脅かしてやろうぞい。なぁに、鉄炮が足らんかったら、さっさと逃げればええがぁ、幸い後ろは山よってに、儂が逃げろ言うたら、猿になった気で逃げればええしのぅ」と孫一が笑って云う。
 「鉄炮の者は前へ来いや。お前らには呉れぐれも言うておく。戦になったら、まずは大将を撃てや、目立つもんを先に撃て、強そうな威張った奴を狙って撃てや、うろうろしてる汚いやつは放っておけ、兜を被って威勢のいい奴を先に撃つんじゃぞぅ」
 
 山門の前に旗指物が持った者がずらりと並んだ。異様な印が染め上げてある。
 白地に真っ赤な「三本足の烏」が折からの微風に揺れていた。
 神武天皇の道案内をしたという熊野の故事に則り、八咫烏(やたがらす)が染め上げてあるのだ。
 孫一は、その旗を隅から睨め回し、独りうなずくと、すたすたと石段の中程まで降りていった。
 「やぁやぁやぁ、そこな物騒なもの等に物申すぅ、我こそわぁ熊野の赤からすの化身たる雑賀の孫一なぁりぃ、縁あって石山念仏衆に寄宿するところ、ここに戦人が押し寄せて来たと聞きし、いま駆けつけ参上つかまつったなりぃ。物言う者がそこに居るならば口上を聞きたきゆえ、もの申せぇ」と腹から絞った大音声で呼ばあった。
 静まっていた松永の陣だったが、やがて幔幕が揺れ、慌ただしく駆け回る様が手に取るように知れる。
 孫一が石段に腰をおろし待つことしばし、幔幕を開けて鎧を着けながら武者姿の者等がばらばらと姿を見せた。その中の一人、一際鮮やかな朱色の鎧を光らせて孫一に負けぬ大音声で名乗りを上げ始めた。
 「我こそは、京の御所方より天下の治安を預けられた松永弾正の守の家臣、瀬戸宇須間之助なぁりぃ、そこな兵衛、良き気持ちで寝入る我らをようも騒がしく起こしてくれたわい。聞いておると熊野のからすの生まれ変わりとか、それで、かぁかぁ煩きこと得心いたしたわい。我らが此処に陣を張るのはゆえあってのことなりぃ、近頃民を惑わす邪教がはびこり、此処らの者等が迷惑を被る由の訴えあり。僧の分際で槍や刀を抱え込み、天に逆らう不届きな輩ども奴、大人しく山を開ければそれでよしと、ここで見守って来申したが、可愛い気もなく援軍などを頼んできたか、もう許せぬぞ、重ねて束ねて叩き斬り、山ごと燃やしてくれように、そこなカラスよ覚悟せい」と叫んだ。
 
 どう見ても戦装束の両者なのだから、いきなり押し寄せて、先手有利とばかりに斬りつければいいのだが、この名乗りを上げてから闘うのが、この時代の正式な戦い方であった。悠長なものだ。
 
 「よう言うたぞ、瀬戸のうすら間抜けとやら、熊野の赤からすと念仏衆のいくさ振り、よう見せてやるほどに、そこな人数掛かって来いやぁ〜」とまた一段と大声で孫一が吠えた。
 瀬戸宇須間之助、見る間に真っ赤になり、地団駄踏んで怒り狂った。
 都では松永の右腕として、好き放題ができる身である。それが得体の知れぬカラスの幟をつけたいかにも虚けた男にうすら間抜けと茶化されている。
 「者ども、坊主とて遠慮はいらぬど、踏みつぶし、差し貫き、叩き斬り、山ごと火をつけて燃やしてしまえ〜」と怒鳴り、自ら先頭になり槍を取ると石段を駆け上がった。
 孫一の思うつぼだ。
 孫一はさっさと門まで退き、同じ赤烏の軍扇を翳すと、脇に控える直助に撃てと低い声で告げた。
 「ダ〜ン」
 腹に響く音が林間にこだました。
 先頭の武将の顔が赤く破裂したのが見て取れた。
 雑賀党鉄炮隊を世に知らしめる初の一発であった。
 仰向けに倒れた瀬戸宇須間之助は、そのまま石段を転がり落ち、動かぬ人になった。
 静まり返る松永隊。なんせ、いきなり全軍の大将が注視の真ん中で討ち死にしたのである。戦いは未だ始まってもいない。
 「鉄炮だぁ、あれは鉄炮だぁ、奴らは鉄炮をもつぞ、卑怯もの奴っ」やがて、どよめきが松永の陣に湧きあがった。話には聞いていたが、その威力を始めて見る者がほとんどだった。みな居竦んだように動かなかった。
 「何をしておる、あんな鉄玉ぐらいに驚くでない、奴らは少数じゃ、飛び物の数も知れておろうぞ、いちどきにかかれば怖くはない、駆け上がって踏みつぶせ〜」瀬戸宇須間之助に代わるいずれ名だたる武将が自らの精鋭を揃えて先頭に踊り出て言う。
 「それ、掛かれぇ」
 さすがに剽悍である。槍を抱え、刀を振りかざし、石段を二段跳び、三段跳びで駆け上がって行く。二、三百の兵が後に続く。
 石段の中程に来た。
 「ダダダダ〜ン」連射が来た。先を行く者が石段に蹲る、転ぶ、転がる、あちこちに異様な悲鳴が沸いた。
 「引けぃ、引けぃの声がした。慌てふためき松永方は石段を引き返した」
 
 「皆のもん集えや、雑賀は鉄炮だけじゃないとこを松永に見せてやれ、敵は大将がおらんよってに此処で腹の真ん中を突っついてやれば大慌てするぞい。鉄炮のもんはここで待つがいい、刃向こうてくるもんだけ狙って撃てや、逃げるもんは放っておけ。八咫烏の化身ども奴、さぁ行くぞう」孫一は言うが早いか大槍を振り回して、先頭で走り出した。つづく旗本衆。それを鼓舞するごとく空鉄炮の音がダダダ〜ンと鳴らされ、僧兵をまじえてた千人近くの集団が一挙に松永の陣に躍り込んでいった。
 早々と、指令する者を無くしてしまった松永の陣は、迎えうつのが精一杯。喚声を挙げて突入してくる雑賀衆と僧兵の勢いを止めるべき激もなく、気迫で押されているのがはっきりしていた。初緒から浮き足だっていたのである。
 作戦を立てる間もなく、一塊りでうごめく集団の真ん中を、穿つように白地に赤の八咫烏の旗印が揺れながら進んでいく。
 
 太刀を打ち合う音と怒号。叫び声が一刻(二時間)も続いた。
 
 松永隊は、大将を失くしたとはいえ兵である。戦いをするための軍団である。挑まれれば、おめおめと逃げるわけにはいかない。気圧されながらも必死でこらえようとする。白兵戦は一進一退をくりかえすが、思いもかけず、雑賀衆は強かった。じりじりと勢いのある雑賀衆に押しまくられ、逃げを打つ者等があちこちで出始め、続いて堰を切ったように総崩れになった。
 
 「半数で追えぇ、半数は止まれぇ」孫一の大音声がする。
 戦は無惨なもの、逃げに入った敵は見逃さない、ここぞとばかりに徹底的に叩くのだ。追って追って追いまくり、めぼしい首級を上げていく。それが恩賞の評価になるからだった。
 
 瀬戸宇須間之助率いる三千の松永隊は壊滅した。
 戦の常識を覆す、あまりにもあっけない幕切れであった。
 鉄炮の威力である。
 緒戦で、大将以下主立った武将を撃ち取ってしまった鉄炮の威力が、鍛え上げられたはずの軍勢をかくも無惨に、烏合の集団に変えてしまった。
 いずれにしても孫一の思惑が見事に当たった「いくさ」振りであった。
 
 この戦を期に孫一は自信をつけ、鉄炮を増やしていった。
 同時に雑賀の鉄炮集団は世に喧伝され。恐れられ、目端の効く大名は雑賀党を雇い入れようとしたし、それが適わぬと知るや鉄炮を採用しだした。
 その最たる者が「尾張のうつけ」と当時言われた織田信長であった。
 それまで細々と家内工業のように1梃2梃と作っていた堺の鉄炮鍛冶のもとへいきなり何千梃もの注文が来た。とんでもない数である。いまで言えば「特需」と云えるのかも知れない。近在の農家の次男三男を雇い入れ、朝に晩に「堺」の周辺では鎚打つ音が響き渡ったという。
 
 永禄三年、信長は桶狭間において、二万三千を率いる今川義元の軍を僅か三千で打ち破ってから、斉藤龍興を破り、家康と組んで苦戦の末、浅井、朝倉の連合軍を姉川で破り、破竹の勢いにあったが、まだまだ、甲斐には天下一戦(いくさ)に強いと言われる武田信玄が居り。越後にはこれまた信玄に一歩も引かない上杉謙信が居る。
 両者が睨み合ったままで終始してくれればいいが、いつ何時、どちらかが天下制覇を志すかは誰にも判らない状況だった。両者ともその力があったからだ。
 尾張の武士団はどう贔屓目にみても、歴戦の両者に勝てるとは思えない。
 そこで鉄炮である。
 
 孫一のもとへ織田信長より使いが来た。信長へ侍従せぬかとの打診であった。
 使いに来た者は、妙に愛想が良い、背が低く、猿のような皺顔の男であった。
 いきなり旧知の仲のように酒を酌み、菜を食べ散らかし、愛想を言い、面白可笑しく姉川の合戦の模様などを語る。いつの間にかその場に並み居る者一人残らず、身を乗り出し、話の興に乗せられて行く。羽柴秀吉と名乗った。
 「儂は主には使えんぞ。紀州雑賀党は野伏せりの一統じゃでなぁ大きな夢はないんじゃ、嫁を喰わし子供にべべでも着せてやりゃそれでええんじゃ」と孫一が言う。
 「判っとりますよ、雑賀の孫一殿は若様じゃで、家来には向かぬ。儂もそう思います。儂に鉄炮を教えてくれませんかな」
 「雑賀の鉄炮よく当たる 大将首によく当たる いくさのおりにゃ大将さんは亀のごとくに首すくめ 音の止むのを待つばかり などと京の小雀どもが囃子てましてな儂にもひとつよう当たる鉄炮打ちを教えていただけませぬかや」と秀吉が言う。
 「はははぁ、猿面どの京ではそんな戯れ歌が流行ってますかや、おおかたそなたがこしらえて流行らせてのではございませんかや」
 「いやいや、雑賀の鈴木孫一殿は鉄炮孫一として、いまや爺から童まで、知らぬものはおりませんぞい」
 「なんと持ち上げるのが巧みなお方じゃ、参り申したわい」
 「この孫一にも師匠が居り申す。直助と申しまして、鉄炮の申し子のような男です。この直助と相談して猿面どのへ教授方の者を差し向けるよう計らいましょうかい」
 「それは有り難い、わが殿もさぞ喜ぶことでしょう」
 鉄炮小僧と呼ばれた直助も、早や齢40を幾つか越えていた。顔の色浅黒く、削げた頬。眼光が鋭い、50間先の鳥の目をも射抜くと伝承されているその眼だ。
 秀吉に案内され、稲葉城改め、岐阜城を仰ぎみる長良川のたもと、信長の広壮な屋敷に入っていった。
 「そなたが鉄炮達者と評判の「種子島の直助」と申すかや、儂が上総介信長じゃ見知りおけ」
 直助がおそるおそる顔を上げると、勘の強そうな痩せ冬瓜の顔があった。信長は近視なのか目を細めて、睨めるように直助を視る。
 噂に聴く「尾張のたわけ」とは思えぬ厳しい顔つきだった。
 「これからの戦は鉄炮じゃ、堺の鍛冶に申し付けて鉄炮をうじゃうじゃ造らせておるがのう、出来てきた鉄炮がどいつもこいつもゆがんでおるんじゃよ、ちっとも的に当たらぬわい、雑賀の孫一の鉄炮は兜首によく当たると聞いておるが、何処が違うのか儂に逐一教えてくれぬかや」といいつつ、早やすっくと立ち上がると「藤吉郎鉄炮を持ってこい」と怒鳴るとさっさと歩き出した。
 豊かに流れる長良川の川畔に周囲を囲った的場に着くと、自ら玉込した鉄炮を的に向かって試射した。当たらぬ。
 右に一間のはずれ。直助はそう見た。
 「そちが撃ってみよ」と信長が言い、直助にぽ〜んと鉄炮を手渡した。
 「狂いを見ますゆえ、一発は地べたを撃たせてください」と直助が言い。的近くの土塁に向けて発射した。(右一間、下五寸の狂いなり)胸の内でつぶやき、新たに玉込めした。
 ダ〜ン。
 二発目は狙った的のど真ん中を貫いた。
 「見事じゃ、種子島の直助。褒めてとらすぞ」甲高い声色で信長が言う。
 「解ったぞよ。狂いは狂いで憶えればいいんじゃ、藤吉郎聞けっ、鉄炮一つ一つに決まった係りをつけろ。鉄炮の癖を憶えさせろ、専用にすればいいんじゃ」
 さすがであった。信長、凡庸ではない。
 戦国期もっとも残虐で多くの人を殺戮したと言われる信長だが、目的に向かう時の頭の冴えは抜きんでていたようだ。
 直助に城近くの屋敷を与え、鉄炮掛け教授(足軽頭)の地位をも与えた。
 天正三年、長篠の戦い。
 武田信玄が没し、その子勝頼と徳川家康が激しい攻防を続けている。
 三河長篠は小さな城であるが信濃と三河を結ぶ交通の重要な要衝であった。信玄が没した三ヶ月後、家康は此処を攻め、もともと家康の城であったのを取り戻した。
 武田勝頼が長篠城を囲んだのは天正三年五月だという。城兵僅か五百の城を一万もの武田勢が囲んだといわれる。守る城主は奥平貞昌、連日の攻撃によく耐え、最後まで此処を守った。
 長篠から武田軍が攻めてきたと知るや、家康はすぐに連合する信長に応援を頼んだ。三度文を書き、最後に、応援なきときは勝頼と和議をする旨申し送ると、それが効いたのか信長が自ら一万の軍勢(三万ともいう)を率いて参戦してきた。
(この時長篠城から使者に立ったのがあの有名になった、足軽鳥井強右衛門である。蟻も這い出る隙間もない武田軍の中を深夜抜けだし、川に入り、走り走って家康に告げた。家康から「信長の応援ともども長篠に向かう」を聞き、急ぎ、城の者を喜ばそうと帰る途中、口惜しくも武田の兵に捕らわれたが、刑に処されるとき、大音声で応援が来る旨告げたという。「信長公当地へ二、三日の内着かせたまふぞ、丈夫に城を持ちたまえ〜」と叫んだと伝わる)
 
 織田・徳川勢一万八千が設楽ヶ原に布陣。武田一万は長篠城北、医王山に陣を敷いた。
 名こそ轟きたる、武田の騎馬軍団に対するために、信長は馬防柵なるものを設楽ヶ原に配置した。其処に、ありったけの鉄炮を三千人に持たせ、五組に分けて張り付かせた。しかも、各組を三段構えとした。(玉込の隙をなくすため)用意周到である。いかに武田の騎馬軍団を恐れていたかが解る。
 武田の騎馬軍団:と聞いたときに、あのロシアの平原を縦横無尽に駆けめぐった、コサックの騎馬軍団を想い描いていたが、当時の日本の馬はコサックの馬より一回りも二回りも小さな馬である。しかもコサックと違って、馬に乗れるのは将だけである。全員が馬に乗って戦うというものではない。当時の他の軍団より幾分か馬に乗れる将の数が多いというに過ぎない。
 
 武田勝頼は「織田・徳川なにするものぞ、我らは天下に敵なし風林火山の旗の下一気呵成に踏みつぶすべし」と言ったかどうかは解りませんが。未だ「負けなし」の気合いがその戦闘の形に出ていた。
 いつものように、まず一陣は50頭の馬面を揃え、千の突き槍隊を従わせ、一気に織田軍主力の中央突破を敢行した。勿論鉄炮のことはうすうすは知っていた。自らも数十丁の鉄炮を持っていたし、全く知らなかったわけではない。着弾距離は精々二百、鎧を通す力は百米がやっとだ、ぐらいには思っていた。一発や二発喰らってもなぁに死ぬことはあるまい。
 「馬防柵など乗り越えろ一陣が越えたら二陣が続けっ」
 一陣は、武田の於いて聞こえたる歴戦の勇士、その名も高き山県昌景である。押し太鼓を鳴らし、馬首を揃えて突進した。柵を破れば、柵さえ破れば、織田・徳川連合軍は混乱する。そこを二陣、三陣が押し込めば戦局は武田軍一方的なり。武田勢の誰もがそう思った。
 その一陣に向かって五百か千の鉄炮が一斉に轟いたという。あっという間である、ばたばたと馬に乗る将が倒されていく。また倒れていく。
 武田方は、この繰り返しを五陣までつづけたという。柵は越えられず。
 武田勢の名だたる将がこの場面で消えていった。
 
 勝頼。呆然自失、顔色なくたたずむを、残りし気丈夫が励まし励まし、鳳来寺のあたりに退却したという。
 
 歴史上鉄炮が劇的に登場した一幕でした。
 
 この戦を期に世の戦いの形が変わった。
 細かく見れば、鎧、兜の材質も鉄製のものに換わっていったとも言われています。
 それまで「やぁやぁ遠くあるものは耳を澄ましてよ〜く聞け」と名乗りあってから始まっていた古式の戦形式が、まず鉄炮の打ち掛けがあって、玉の尽きてからが刀槍の戦いになっていったようです。
 「もう嫌じゃ、人を撃つのはもうやめじゃ、雉や山鳥を撃って、晩餉の食にするんなら魚獲るのんと同じなんやけど、戦ごとで人をうつのんはもう嫌じゃ、毎夜毎夜、鬼のような形相の鎧を纏った大きな躯の化けもんが枕元で騒ぎよるわい、どいつもこいつも頭に鉄炮で撃たれた穴あけて仰山な血ぃだして恨み言を抜かしよるとよ、そのつど頭下げてあやまっとるけんど、もう身がもたんわい、種子島に供養の石でも建ててようよう謝るよってにどうか在所に帰してやってくださいや」直助は秀吉に訴えた。
 
 もともと根が心優しい男である。鉄炮が手元になければ、とても人など殺傷できるものではなかった。鉄炮が上手なばかりに幾人人を殺めたことだろうか。齢40を過ぎたこの頃になってそのことの恐ろしさを考えるようになってしまった。
「意気地がないのう、直助は『下克上』というのん知っとるかや」
「知らぬ」
「儂も学がないでのう、明智殿に聞いたとこによると、儂みたいな水呑百姓の倅でも戦ごとにボチボチ勝っていけば、いつか京の都の将軍さんより偉くなれるらしいだわ。いまはそういうことの出来る世だちゅうことらしいだよ。織田の殿さんも、今川氏や斉藤氏に勝ってから急に強うなってきて、今度は武田に勝ってまったで、京に入ってもだれも刃向かってこれんぐらい強うなったんだわ。この勢いで、西の毛利や東の伊達なんどを切り取れば天下一の大殿さんになれるんだわ。直助も気弱なこと言うとらんと、鉄炮方で一心不乱に尽くしゃええ、手柄次第でどこぞの城の一つでも貰えるにぃ」
「城なんど滅相もない、種子島に襤褸な家でも建てて、日がな海で魚でも獲って暮らすのんが儂の望みですらいどうか殿さんに言って暇在貰うてくださいや」
 天正五年、直助は念願の種子島に帰ってきた、鉄炮から離れようと決心し、ポルトガル人が漂着した西の村の浦が見渡せる小高い山の頂に鉄炮の碑を建て、供養した。
 親も家も無くしていたが、蓄えた金を小出しにして、小さな家と舟をあつらえ、漁師のまねごとで暮らしを立てていたが、聞きつけてきた薩摩鍛冶の者に、たってと請われたのが始まりで、鉄炮の試射をした。あまりにも狂いが多いので鍛冶場に出向き、鍛冶作業の一部始終に立ち会ったのが縁となり、鉄炮鍛冶に携わるようになっていった。
 直助が手がけた鉄炮は「直助丸」と名付けられ、それまでの他の鉄炮より持ち重りはしたが、頑丈さと精度がずば抜けて高く。火薬の量を増やして、飛距離も伸ばした。薩摩はおろか九州一円に噂が広まり。注文が殺到したという。
 逸話がある。
 島津の鉄炮掛奉行が集めた、各所で拵えた種子島伝来の鉄炮十丁を無作為に並べ、十人に十回づつ試射させたところ。直助丸が格段の命中率を得たという。
 直助丸を手に入れた者は家宝として、鄭重に扱い。直助もいつしか鉄炮の神様のように思われ、敬われた。
 
 「因果じゃのう、結局儂は鉄炮から離れられんわい、始めて鉄炮を見たときよりいっつも鉄炮がついてまわりよる。死ぬるんまで儂には鉄炮が傍にあるようじゃ、やっぱし儂は鉄炮小僧なんじゃな」と直助はひっそりと笑った。(完)