問わず語り
 

岐阜城


「信長殿はまだ見えぬかや」と稲葉山(金華山)に雄と立つ城を
仰いで、入道頭が言う。
西村正利から斉藤利正。いまは出家して道三と名乗りをかえた、
美濃の風雲児斉藤道三のつぶやきである。
脇には長良川が豊かな水量で滔々と流れる。
「儂は義竜が嫌いじゃ」
の一言が親と子の本気の戦にまで発展した。

美濃の蝮(まむし)と渾名され、嫌われ、恐れられた斉藤道三といえども、
いまはなかば隠居の身である。
数倍と勝る我が子「義竜」の軍勢に対峙し、さすがに援軍の到来を気にした。
(娘婿の信長殿は舅を気遣って此処に向かっておるというがそれまで待てるかや)と
その気弱さがおもわず稲葉山城(岐阜城)を振り仰ぐ所作となった。
「まっ、ええかぁ、面白い「世」じゃったわい」と禿頭をつるりと撫でた。
弘治二年(1556)長良川合戦と言われる親子の戦は、子義竜の圧勝で終えた。
道三は討ち死。稲葉山城は義龍が所領し、後、その子竜興が継ぐが、
永禄十年、信長によって、京に追われる。
信長は本拠をこの稲葉山城に移し、名を岐阜城に改める。
信長は城を改築し、金箔瓦を使用した華麗な城であったという。
慶長五年の関ヶ原の戦まで織田の所領であったが、西方に参加した秀信が敗れ、
慶長6年廃城となった。

 

 
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