問わず語り
 

板前

名古屋の下町、大須という処の裏通りに小さな料理旅館がありました。
親父さんが板前でお母さん、息子、娘の四人だけで営んでおりました。
息子のまさるくんとは幼なじみで、腹減らしの学生の頃、よく昼飯や
晩飯を食べさせていただきました。
親父さんは、無愛想な人でしたが、優しい人で、短く刈り上げた頭に
寿司屋さんのようにいつも鉢巻きをしていました。
私の実家も直ぐ近くでうどん屋を営んでおりますので、その関係で、
親父さんは、私たち二人を時々呼んでは、料理の仕方を教えてくれました。
その中で、何度も何度も繰り言のように聞いたことがあります。
それは、料理人とお客さんでは、同じ物を食べても、味わい方を違えなければ
いけないといわれました。
お客さんは、出された料理を、美味い、不味いと言っていればそれでいいが、
料理人になるためには、こころして、舌を育てなければいけない、
おだしは効いているかとか、塩や醤油や味醂や味噌や酒や砂糖の加減はどうか、
材料の味はよく表にでているか、一口一口、確かめて、食べなければ
味覚というものは育って行かない、上手な料理人になるためには、
いつもいつも、そうやって食べる習慣をつけなさい。
包丁さばきや見せ方の技を憶える前に、まず舌を研ぎなさい。と言っていました。
腹減らしの餓鬼である私たちには、半分がとこ馬の耳に念仏でしたが、
あまりに何度も聞いたので、いまだに憶えています。
それと、もうひとつ、
食べ物の好き嫌いは人間だから当然あり、それは仕方ないことだけど、
嫌いなものでも、食べられるようにしなくちゃいけない。
人参の味を知らずに人参を料理してはいけない。
お客さんに出す物はどんな物でも味見をすること。味を知っていること。
始めての味で嫌いになった物は得てして遠ざけようとする、
嫌いにどんどん塵が積もり、払っても払っても塵がとれず、
もう、食べられなくなってしまう、(食の刷り込み現象=hanzo注)
そうすると半端な料理人になってしまう、
嫌いと思っても、無理をして食べていれば、食べられるようになる。
好きになったりもする。
人の味覚とは、そういうものだ。といわれました。
いま、私は、料理人ではありませんが、
その親父さんのお陰で、人が普通に食べる食物で
食べられないものは何一つありません。
腐り系味の食品でいうと、
強烈な臭いのくさやの干物でも、米の腐った味の鮒ずしでも、
好きではありませんが、食べられます。
なまぐさ系の食品ですと、
かつおやかますの内臓の塩辛は好物です。
勿論苦手だった人参も出されれば食べております。
親父さんに感謝しております。


 
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