問わず語り
 

甲斐犬

 「今年は山なりが繁いづら(山の実が豊作で)親父(熊)も向こうさの山へ引っ込んだまんま出てこねえだよ」つい独り言が出てしまう。山へ入るといつもだ。
 焚き火の傍の黒い塊がぴくりと動いた。昭和5年。長野県八ケ岳山中の狩小屋、職猟師源助のつぶやきだった。
 「あしたは、山を下りるかや、雪も近いようだしのう「はや」よ」
 「はや」と呼びかけられて、塊がむっくり起きあがった。暗闇に溶け込んで真っ黒にみえるが「虎毛」の甲斐犬である。もう一頭、同じ虎毛が眠っている。あぐらをかいた源助の膝に前足を引っかけるように掻いてから、置かれた手の甲をぺろりと嘗めた。
 生涯一人の飼い主にしか慣れないといわれる「甲斐犬」が源助だけにみせる甘えの仕草だった。
 山に入って三日目の夜。獲物といえば兎三羽、ヤマドリ二羽。殆どが「はや」と「よし」二頭の犬の仕事である。
 「ええか、マタギの犬は雌がええだ、気のしっかりした雌犬にかぎるだ。雄犬はどうしても我を忘れて熊に掛かっていってしまうだ。どんな強う犬でも「親父」には勝てんど、熊を噛み殺した犬なんど聞いたことあっか」
 「すばしっこくって、しつこい黒犬(甲斐犬)の雌がいちばんええ」お父(とう)のおしえであった。
 「はや」の頭を撫でながら何杯目かの濁り酒を茶碗に注いだ。
 猟師小屋の外では風が強くなってきた、桧葉の木の擦れる音がする。
 (お父うと、おらで幾つ「親父」を獲ったことか、減りもすらなぁ)
 酒が回ってきたが眠る気になれなかった。
 戸外で「おうい、おうい」と人を呼ぶ声がする。
 (狸がきたかい)
 小屋の灯りを慕って近づいてきたのだ、何処で習い覚えてきたのか、人そっくりの声で呼ばう。
 「ぎっ、ぎっ、ぎっ」と鳴いているのは「よだか」だ。モズのさし餌でも見つけたのだろう。地面ではリス奴が好物の鬼胡桃を忙しく運んでいることだろうし、フクロウがうの目たかの目でコソと動く虫を睨めているはずだ。生き物の擦れる音、吐息までもが源助には聞こえる。
 若いころは怯えもしたが、いまでは、婆が孫に唱う下手な揺らし歌のようにきこゆる。
 人の気配がする…  源助にはわかった、耳のいい「はや」でさえ気づかぬが、確かに人がいる。
 「姉(あね)さんかや、山姥(やまんば)になったんかい」
 隣を向いて、源助が問う。
 「おらも、このとうり達者だで、里は豊作だし、あねさんが気に病むこたあなんもねえずら」
 「酒でん飲むかや」飲みさしの茶碗を干して、新たに酒を注ぎ入れて、隣に置く。
 「お父うの酒を二人でこっそり飲んだだゃ、「姉」(ねえ)は酔うとすぐ泣くだで、おらぁ好かんかったども、山姥になっても泣くだかや」
 「里の話しでもしようかい」
 「はや」が頭をもたげて、不審気に源助を見やり、また寝に入った。
 「裏のなぁ甲昌寺に、三十前の若い坊(ぼん)さんが来ただよ。婆らや、喜一ん家の出戻りの「しの」らが面白がりおって、三日にあげず寺に通うてのう、講話も聞かんと、からかいに行くだけじゃ。
  「しの」がだんだんその気になりおってのう、ある日、怺(こら)えられんようになって夜這いに出たんじゃと、庫裏に忍んでいって、いきなり布団にもぐり込みおった、坊さん吃驚したさぁ。そんでも気を取り直して、「しの」の背をたたいて云うたと、おまえの思いを叶えてあげたいがのう、黙っておって悪かったが、おらは、実は「尼」なんじゃ、すまんのう、と」  話しながら、源助が何気なくふと横をみるといつの間にか、茶碗の中の酒が干されていた。

参考資料/吉田悦子著:日本犬・血統を守るたたかい「新人物往来社」

 
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