問わず語り
 

くえ


「ほれ、石鏡(いじか)の先にな、「かがみ」いうとる魚礁があるやろ
海女らぁがあわびやさざえをよう採っとるとこやぁ」と爺が話し出した。
「あの鏡のもう少し上(かみ)に大きな隠れ根があるんさ、そこに洞穴があってな、
入り口は人一人がやっと入れるぐらいなんやが、内は大きく抉れ取るんさぁ
その穴になぁ1mを越す「くえ」が住まっとるんよ。海女らぁが何度も見たと
言うとったわぁ」
「そんなら、しし(銛)で突いたらええやんか」と幸太が言う。幸太、13才。
「その穴は奥が深こうてな、恐おうて誰もよう入っていかれんのよ、
昔な、栄助オジが若い頃「しし」持って突きに入った言うとったが息が続かん言うて
それに、妙にな「恐れ気」がするんやゆうて慌てて出て来た、いうとったなぁ」
「爺ちゃん、網掛けたらええやんか」
「網もかけたさ、何度もな、そんでもあかんかったわ、あそこは根が荒いよって、
ワカメやアラメも茂ってるによって、ええ具合に網が張られんのよ。ワガやカサゴは
いくらでも掛かってくるんやがどうしても「くえ」は掛からんわさ」
「釣りでもあかんかぁ 爺ちゃん」
「おぅさ、穴の中に釣りは入れれんよってなぁ、穴から出るとこを狙って釣りを
するより手がないんやろうなぁ、波の静かな日の朝早うにか、夕にでも
釣り垂らしたら掛かってくるやもしれんけど、まだ誰もよう釣らんとこみると
賢いんかいのう「くえ」のほうが」と笑いながら爺が言う
「大きくなったらオレが捕ってやるわ」と幸太
「そうやな 今しやったら「くえ」に海ん中に引きずり込まれるよってにな
大きくならにゃ無理やろな」と爺がまた笑う
 
その次ぎの日、夏休みの宿題をやっていると爺ちゃんが上がって来て云う。
「坊よ、夕にでも爺と釣りにいこかい」
「ええけんど、釣りの仕掛けはあるんかい」と幸太。
「おおよ、坊のんもこさえといたによってになぁ。ほんで、エサの「鯖」を
栄助オジに頼んだるよってに、後で貰うてこい」

 かあ(母)が用意してくれた、お茶と手拭いを持って出ようとすると
「幸太よ、爺と釣りにいくんやて」と(とう)父が云う。
「向かえのオバちゃんとこへ大阪からお客さんが来とるよってになぁ
「ガシ」(カサゴ)を20ほど釣って来いやぁ」
「ガシやき細いのん釣りとないぞ、ツエ(黒鯛)の大きいのん釣って来る
かんのぅ、とう(父)」
「ははは、幸太にツエやき釣れるかや、エサのエビあるんかい、エビのうては
ベラがせいぜいやな」と笑う
(とう(父)には、言われんけんど、オレ等はほんまは「クエ」釣るんやから)と
幸太は思っていた。
「幸太ぁ、帽子を忘れんと被ってけよ」とかあ(母)が云う。

海は凪いでいた。陽は西に傾き、微風が海を渡っていく。
舟を走らせると、シャツを通る風が心地よい。
牡蠣筏を縫うように10分ほど走り、突きでた島の鼻を越すと、土地の者が
「かがみ」と呼称する岩礁地帯が黒く見えだした。
爺が薫らすタバコのかおりに交じって磯の香がいっそう強くなった。
舟を微速にして爺がさかんに首を右左に振る。
「坊よ憶えておけさぁ、左の菅島の高けぇ山とな、右に見える石鏡の堤防とを
目で結ぶんや、そんでそこの、海に突き出とる島から菅島のほうへ20尋ほどの海の
下が全部島(岩礁)やぞ、此処を舟で流すんや、島が荒いよってにな錨は打てんのや」
「坊はこの仕掛けを使え、根に喰われるよってハリスは細めじゃわ、コツンと
しず(重り)が底についたらなぁ二尋上げろや居眠っとったら根掛かりしよるぞ
いっつも上げ下げしとれよ」
「うん」と幸太。
いつになく神妙に返事をし、ゆっくり指でブレーキをかけかけ仕掛けを海へ
落としていく。
錘が底に着き、一尋持ち上げると、いきなりあたりがきた。
「爺ちゃん、魚や、引きよるぞ」
「あわてんな、そんなもんこまい(小さい)よってにゆっくり手繰りゃえんよ
糸だけ足下にもちゃらかさんとそうっと置くんやぞ」
「爺ちゃん、赤魚(カサゴ)やったわ、かんこ(水槽)入れてくぞ」
「おおぅ、しばしそれでも釣っとれ」
心持ち海がざわついてきた。
幸太が落とす釣りの仕掛けが艫(とも:舟の尾)へ流されていくようになった
「爺ちゃん、またやぁ、根に掛けてしもうたわ」
「潮が入ったによってになぁ、坊には無理よってに、もう釣り仕舞ってけさぁ」
「うん、もう止めるよ、細い魚ばっかりやから飽いたわ」爺がはずしてくれた
仕掛けを糸巻きに巻き戻し、かんこ(水槽)をのぞくと30匹ほどの小魚に交じって
いつの間に釣ったのか大きなアイナメが2匹と鱸(すずき)が1匹泳いでいた。
「爺ちゃん、こんな魚いつ釣ったん」
「さっきなぁ、潮が動き始めたとき、釣ったぞい、爺の仕掛けは太いよってになぁ
そんな魚やきごぼう抜きやわい」

陽が沈もうとしている。
爺が、指を曲げたほどの太い針に鯖の切り身を縫い刺しにして海に投げ入れた。
「坊よ、帰ろうかい、少しは釣れたによって、大阪のお客さんにも喰わせられるわい
坊が釣った魚は格別に旨いよってに皆喜ぶかいなぁ」と爺が、タバコに火をつけなが
ら笑って云う。
「ややっ きたぞ、坊」と爺が、いつになく甲高い声で云った。
「いかん、穴に持ってきよる、坊、取り舵じゃ、微速前進」
幸太は、操舵輪を握り、爺の指示を小声で復唱しながら操作する。
爺が、釣りを一度大きく煽り、渾身の力で一尋二尋と引き上げる。
「よ〜し、穴から出したぞい、おう、引きよる引きよる、待てよ待てよ」
爺はひとりで喋りながら糸を遣り取りしている。
「えらい力や、ほれ持ってけ、こっちやこっちやこっちこいてま」
慌てることなく、糸を繰り出したり、また手繰ったり、右に左にいなすが、
なかなか上がってこない。
「坊よ、ゴースタン(後進)じゃぁ、面舵すこし」
「魚が上がるぞい、坊、舟止めろや」いいつつゆっくりと糸を手繰ってくる。
「坊よ、かがみ(手網)取れ、もう少しや」
手繰るうち、腹を上にして黒い魚体があっけなく浮き上がった。
手網で頭から掬おうとしたが尻尾の部分がはみ出していた。
爺が両足を踏ん張り「よいしょ」とかけ声とともに舟の中へ放り投げた。
「すごいぞ爺ちゃん『くえ』やぞ、大きいのう、オラが両手広げたぐらいあるぞ」
ずんぐりと太った、1mもあるかと思われる、黒い濃淡の斑模様の魚体であった。
腹のあたりがふっくらとふくらみ、白くみえる。
幸太が手で撫でるように触ると、びくっと身体をくねらせた。
「爺ちゃん、この魚、やっぱり主かいのう」
「おおう、主かもしれんのう」と爺がいい、大きくひとつ息を吐き麦藁帽子に
巻き付けてあった、手拭いをはずし、顔の汗をぬぐった。
爺の頭の向こうを見遣るといつの間にか陽は沈み、水平線上にひと筋、
血の色のような赤が刷かれていた。
爺は立ち上がり、もう一つ目のカンコからひと掴みの塩を取ってきて、
舟の舷に振り掛けて回る、幸太にも振り掛けた。

石鏡(いじか):三重県鳥羽市鏡浦町石鏡
くえ:すずき科の魚、淡泊で美味。
一尋:大人が両手を広げた指先から指先までの幅
取り舵:船首を左に向ける舵の取り方 面舵は右

 
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