問わず語り
 

講談:関ヶ原の戦い「大谷刑部吉継」

越前の国敦賀の城主に大谷刑部吉継という武将がいた。
天正17年(1589)秀吉から守護を命じられた。
天正は19年まで、その後の文禄が4年で慶長に代わり、慶長3年の八月に
秀吉が没している。
大谷吉継は慶長5年の関ヶ原の戦で、小早川秀秋の裏切りに遭い、
両軍を通じて唯一自刃して果てた武将として知られている。
もう一つ、大谷吉継はそのときすでに、ハンセン氏病を深く患っており、
関ヶ原ではほとんど目も見えず、足腰も弱っていたので、
輿に乗って采配を振るったという。
何故に吉継は、そんな身体でしかも最前線に出ていったのか?
吉継は織田信長の孫とも言われ、家臣団に慕われ、
義に篤い聡明な武将であったと言われている。
戦場では、常に吉継をかばうように屈強の士が数名囲んでおり、
特に湯浅五助なる家臣が陰のように付き添っていた。
湯浅五助は吉継自刃の後その首級を密かに土にうずめ、
一騎駆けで敵陣深く斬り込み、無惨に果てたと伝わっている。
有名な逸話がある。
秀吉存命の頃、茶会に呼ばれた吉継が茶を喫しようとしたとき
顔を覆った頭巾をつたって、膿汁が一滴茶碗に落ちてしまった。
隣に座する石田三成の目線に明らかに入っている。
三成が僅かに身動いだ。
(南無三宝)吉継は胸の内でつぶやき、その珍なる茶碗をば
いっそ叩き割りたい心境で目をつぶった。
同じ茶碗が三成に回った。
三成動ぜず、吉継に軽く微笑み、答礼してから両の手で押し頂き、静かに喫した。
(かたじけない)吉継は心の底から三成に感謝した。
「殿、家康殿からなにやら書状が届いたと聞きましたが、何を言って
 来ましたか、それがしにもお聞かせ願いませんか」
「三千助も気になるかや、さもあろう、家康殿はな、お味方せよと
 言ってきたわ、必ずや所領を安堵し、なお加増を約束するよし申し送り
 候。と書いてきたわ。西方の主だった方々へも手際よう文が回
 わっとると思わねばのう、これは治部(三成)殿も手強いことじゃ」
「して、我が殿には、どちらにお味方されるのですか」
「はははぁ、三千助はどう見るかや」
「はいっ、三千助は猪です。躯は頑丈ですから、殿を負ぶって、一里でも
 二里でも走れますが、頭はからきし働きません。頭は殿や父上にお任せ申すゆえ
 仰せ通りに動けばよいと決めています」
「そうか、三千助は猪かや、そういえばどことのう鼻のあたりが似とるのう
 ははは…」
「西方も東方もいまは5分じゃ、人の数は西方が多いようじゃ、だがのう、西には
 太い柱がないんじゃ、加賀の前田利家殿がご存命ならば、一つに纏まって、家康殿 も迂闊に出られんとこじゃがのう。治部殿も仮の長屋を仰山建て増しして数だけ揃 えてはいるんじゃが、腰が据わらぬ方々がお見えのようじゃで。
 儂はのう三千助。この病じゃで、いまさら命なぞもういらんわい、そなた等の身の みが心配じゃが、勝敗は時の運。己の義のあるとこで死にるんが武辺の者の
 心する所、儂は故あって治部殿を裏切れんのよ。そなたの父ともよう合議して、
 此度の戦、治部殿にお味方することに決めたわ、決めた以上命ある限り這ってでも 戦に出る。三千助すまんが負ぶってくれよ」
「はいっ、父上からも聞かされています。殿の患いは我らの業をお引き受けなさった 病とか。殿の下知のまま、猪になって走ります故なんなりとお申し付け下さい」
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)九月十五日午前八時。西軍八万五千。東軍八万。
まずの戦端を開いたのは、東軍井伊直政の軍勢三十数旗の抜け駆けだったという。
西軍の宇喜多秀家に攻撃をしかけ、宇喜多応ずると、東軍の猛将福島政則がこれに続き、一気に戦いが始まった。
一方、西軍の主力石田隊に向けて、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、金森長政等が殺到した。対する石田隊の先鋒は勇猛を誇る島左近である。長政は、正攻法を避け、側面攻撃に出た。効を奏し、崩れんとする島隊に、西軍、蒲生郷舎が加勢に加わり、猛烈な反撃に出る。さしもの黒田隊、細川隊も乱れを生じ、一進一退を繰り返す戦局になった。
序盤の戦は西軍有利に終わろうとしていた。
午後になった。
大谷吉継隊は藤堂高虎隊と五分の戦いをしていた。右、松尾山に布陣する、小早川隊一万二千が側面から攻撃すれば、戦局は一気に西軍に傾く形勢であった。
それまで、大谷隊と共に闘っていた、脇坂、朽木、小川、赤座隊が一度軍を引き、隊列を整えた。
したがなんと、その軍勢が小早川隊と一緒になって、大谷隊に挑んで来たのだ。溜まったものではない。
「殿っ、小早川隊の裏切りです。もはや止められませぬ。お逃げくだされぇ」
悲痛な声が伝播してきた。
「そうかや、やはりか」
「五助。儂の醜い首を他人に見せるな。三千助介錯せいっ」
 大谷刑部吉継最後の言葉であった。
天下分け目のいくさと言われる関ヶ原の戦いも僅か6時間の戦いであった。
三成は僅かな従者とともに伊吹山中に逃れたが、二十一日に捕らえられ、十月一日、安国寺恵瓊、小西行長共々、洛中を引き回された上、斬首。首は三条大橋に晒されたという。
「お〜い、皆のもん、負け戦じゃっでぇ、このまんまおっど、首はねられっどぅ、おいどんらぁ「嫁か」のもとえ帰えるっせい。息のあるもん皆あつまれぇ」
敗北が決まった時、最後まで陣を張っていた西軍の将、薩摩の島津義弘は、全軍で大胆にも敵中横断を決行し、苦労の末、義弘以下八十余名が九州に戻ったという。
そのとき「チェスト〜」なる甲高い奇妙なかけ声があたり一面に響き渡り、その声を聞くと人の群れが草を分けるように退いたと言う。
戦後、小早川秀秋は、備前、備中、美作を与えられ、十五万石加増の五十一万石となった。
しかし、その二年後に狂死。家は断絶となったと伝わる。
(参考資料:奈良本辰也、戦国武将ものしり辞典)

 

 
button_back