問わず語り
 

印刷文字について

 (株)写研の写植文字が、印刷物(広告等)から姿を消してから久しい。(ごく一部になってしまった)ほとんどが「モリサワ」などのデジタルフォントにとって変わった。
 ご存じのように、広告の世界では、つい最近まで(6年前ほど)印刷文字の主流は「写 植文字」であった。代表する会社として、「写研」と「モリサワ」と「リョウビ」の三社があって、全国シェアーの60〜70%は「写 研」の文字が占めていたと思う。
 写植はそれまでの活版組版に比べ、文字の種類も豊富、レイアウトも自在ということで瞬く間に文字組版の主流になっていった。(ざっと25年以上は写 植の時代が続いたと思う)その間、様々な文字が、たくさんの人々によって創られ普及していった。
 あるとき「タイポス」というネーミングの書体が創られ(株)写研から発売された。独断で言えば、デザイン文字としてヒットした第一号だと思う。カタカナとひらがなだけであったが、手持ちの明朝体やゴシック体と組み合わせて使うことができ、組文字のバリエーションを広げた。
 気をよくした(株)写研は、一般公募や自社開発によって、矢継ぎ早に新書体を発表していった。ナール、スーボ、大蘭、織田特、等々、そして一世風靡のゴナファミリー。それまでの既存の書体を含めて、圧倒的なシェアーを獲得していった。(こだわる人達の間では「MM-OKL」とか「秀英明朝体」等、微妙な味わいのある書体が支持されるようにもなった)「写 研」全盛の時代である。日本全国津津浦々、印刷物のあるところ、写研監修の文字を目にするようになった。機械の進歩と相俟って(夢のモニター表示の写 植機完成)広告物の表現が、良くも悪しくもめざましく変化していった。企業努力と社会ニーズとがぴったりと一致して、順風満帆。(この頃の「写 研」に私は敬意を表している)デザイナーや写植オペレーターが文字組の微妙にこだわるようにもなっていった。(例えば文字の詰め具合とか、僅か2ミリ四方のひらがなやカタカナの詰まり具合を気にしたり、文字どうしがくっついた組み方をもよしとする人達も出てきた)いわば組文字世界の爛熟の時代であった、と思う。

 「文字は文化であります。文化である以上社会の共有の財産だとおもうのですね。それが、事情があるにせよ、片側の理由で消えてしまうというのはとても理不尽なことだとおもうんです。写 研さんの言い分を考えてみますと。うち(我社)は、まだ写植機やパソコン制御の機械を作っているから、うちの文字を使いたければうちの機械を購入すればいい。となるのでしょうが。確かに、先が見通 せない状況でならこの言い分は通るとはおもいますが、写研さんのいまの機械というのは何千万とする上、自己完結型のとても閉鎖的なシステムなんですね。資本力があって出版物を扱う印刷会社が専用機として導入出来るぐらいで、ただでさえ、弱い立場なのに、見積もり額を削られ、納品するとまたまた値引きされ、やっとの生活を強いられている世のデザイナーや組版職人が購入できるわけがない。(「怒りの葡萄」を書く気はないが)現況を知らなさ過ぎると言わざるを得ない。しかも、最近のパソコンやアプリケーションは写 研さんの機械と比べ、格段に安い上に、使い易く、高度な技もできる。汎用性もある。誰がどうみても、比べものにならないでしょう。(多頁物は別 にして)ここはひとつ、いきがかりの「行き違い?」は忘れて、かつての写研ユーザーの方々に提供するというのが筋というもんではないでしょうかねえ。ただとは言いませんから。
 もう一度いうと、写研さんの文字というのは、勿論写研さんの財産であると同時に世に普及していった次元で世の財産でもあるとおもうんです。ここで企業倫理云々を言う気はありませんが、大きくいうと日本の文字文化の充実のために、是非にも、デジタルフォントの提供に踏み切って頂きたいと願うのです。(適正な価格で)」
 「いまさら、写研の文字などいらない。今頃参入されても、ものいりが嵩むばかりでデメリットにしかならない。といった声も聞かれますが、文字文化の「質」といった面 を考えまして、かつて流通した「人気物」の写研の文字達をもう一度社会に面通 しさせるべきだと私は考えています」

(聞く処によると、IllustratorやPhotoshopのアプリケーションを作ったAdobeは日本発売に際して、デジタルフォントの製作を、始めに写 研に依頼したという。断られたAdobeは仕方なく時のメーカー二番手のモリサワに頼んだといわれるが。あくまでも未確認情報です)

 
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