浦
地図を眺めていて、海岸線をたどっていくと、気になった地名の表示があった。岬と崎の使いわけである、どうもよく解らない。辞典を開いて確かめてみると、岬も崎も、ともに「さき」というらしく、岬には美称の「み」をつけて「みさき」とよぶ用法ができたという。「さき」は先端を意味する。さきっぽの「さき」である。
三重県の志摩半島の先に御座岬があり、少し戻ったところに大王崎がある。御座岬は半島の最果 てなので、どなたかが敬意を表して美称の「み」を冠したのであろうか。
もうひとつ、さきっぽの表示で「鼻」というのもある。鼻のように突き出た地形に与えた名称なのだろう。
陸地が大きく窪んで、水が入り込んだあたりを湾とよび、少し窪んで風うらになり波静かなあたりの入江を「浦」と呼ぶ。小舟をもやうには絶好の処だから、自然に人が居を定め、村ができた。
鳥羽からパールロードにのって車で15分も行くと、白い橋がある。麻生(おう)の浦大橋という。手前の村を「今浦」といい、向こうの村を「本浦」という。牡蛎の養殖が盛んで、日本で一番早く出荷するというので、秋の季節になると各TV局がよくとりあげている。
「一(はじめ)にいちゃん、夜磯に行こやぁ」
三つ年下で十三になる従兄弟の則雄がさそいに来てくれた。毎年、夏休みになると母の実家である、此処「本浦」へ遊びにくることが恒例になっていた。
「飯蛸(いいだこ)が寄っとるよってに、九時におら家(げ)へこいや」
「うん。ええよ、なに持って行けばええの」
「なんも持ってこんでええ。しし(銛)もバッテリーもあるよって躯だけでええぞ」
叔父にその旨を告げると、
「夜さりは寒いよって、長袖着てけ」といわれた。
本浦の家々には、それぞれ代々の家号があって、則雄家は「ソウハチゲ」と呼ばれている。母の弟の養子先であった。則雄の父、「はじめ」の叔父は兼業の漁師である。近場で鯛、鱸(すずき)、かいず(黒鯛)、わが(めばる)などを獲っている。
ソウハチゲに行くと叔父がいた。
「あいら(おまえら)に飯蛸が突けるんかさぁ」と笑いながら叔父がいう。
いつもきげんのいい叔父に「はじめ」はなついていた。
炉端を囲んで、爺、婆、叔母、従兄弟たちがいて、みな笑っている。
「一(はじめ)にいちゃんには無理でも俺が突くよって大丈夫や」と則雄。
則雄に突けるもん俺でも突けるわ。とそのとき思っていた。
則雄と二人で舟だまりに向かい、もやっていた舟に乗り込んだ。櫨(ろ)で漕ぐ舟である。 真っ暗な海を岸辺伝いに漕いでいく。灯りといえば、家々からもれる僅かな灯りだけである。心細いことこのうえない。舟の縁をつかむ手におもわず力がはいる。
則雄は慣れたもので、リズミカルに、ゆっくり漕いでいく。海は凪いでいた。
海に張り出した小さな「鼻」を越えると、櫨を止めた。バッテリーをいじくってライトを点灯させ、海を照らすと、海底が驚くほどくっきりと見える。岩肌のこぶこぶ。海藻のそよぎ。
「これで突けや」
銛を持たされたが、まずは則雄の様子を見ることにした。
「おるわ、おるわ」海底を覗きこんでいた則雄がいい。銛をかるく突いた。
10センチほどの蛸が銛に突かれていた。
「はじめ」も勢いこんで海底に目を凝らしてみる。が、蛸らしい姿を捉えられない。
則雄が忙しく次々に突いていく。
「はじめ」は気が疾るばかりで、一向に突けない。蛸がみえないのだ。
則雄が片手で操作して、舟はゆっくりと流れる。
砂地であったり、岩場であったり、海底の様子が変わっていくのが面白い。
「おっ、みろや。鯔(ぼら)がおる」と則雄が銛で指し示すので、視ると60センチほどの魚が海藻の中で「じっと」している。
「寝とるんや」と言いつつ、スパッと銛が行き。身をくねらせて、あっけなく「鯔」が突かれてきた。
一時間ほどで漁を終え、則雄が突いた飯蛸が三十ほど竹笊に入っていた。
結局「はじめ」は一つも突けなかったが悔しくはなかった。いきものが潜む海底を覗き見れたことが嬉しかった。
次の日の昼、飯蛸の煮付けが大鉢に盛られて届けられてきた。 腹を囓ると、生煮えの「米粒」がいっぱい入っている。
「なんやこれ、ご飯がはいっとるよ」
「この時期の飯蛸やもん、はいっとるが普通さ、それが卵さね」と叔父が言った。
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