問わず語り
 

山桃

 朝から田草取りにでかけていた爺さんが、赤黒い野苺に似た実を「アルマイト」の弁当入れいっぱいに採ってきた。
 「おまえの母さんはこの「山桃」が好きでのう、いくらでも喰うたぞ…。井戸端に冷やしとくよって、あとで喰えばええ」
 正夫が5才のとき母は他界した。記憶のなかに母はいない。人が話す様々な断片を繋ぎ合わせてやっとおぼろげな像を結ばせてみるが、どれも儚い白い幻のような像だった。
 井戸端に行き、水桶に浮かんだ赤黒い実を二、三粒頬張り、種を吐き出すと、甘酸っぱい味覚が口中にひろがった。
 苺でもない、桜ん坊でもない、桑の実でもない、独特の甘酸っぱさがあふれた。
 (山桃の甘さは母さんのあまさなんだ、山桃の酸っぱさは母さんのすっぱさなんだ)そういい聞かせながら一粒を口に含んで、ゆっくりとあじわってみた。
 「爺ちゃん、あした山桃を採りにいってもええかぁ」
 「ええけんど、山桃の木はすぐ折れるよって、登ったらあかんど、爺が採ったるよってに、下で拾えぇ」
 爺ちゃん家(ち)の田は山を拓いた小さな田である。畦の道が山の道とつながっている。
 「これが山桃の木や」
 白茶けた幹に細い葉が互生して、その先に赤い実が5、6個付いている。すぐそれとわかる特徴のある木だった。
 「こどもん頃、これに登ってなぁ、枝が折れてえらい怪我しおったわ」と母の想い出を語る。
 「みなに、食べさせたるんやいうて、篭いっぱい採りよった、枯れ枝で「モンペ」を裂いて血ぃだしながら、そんでも篭を離さんと」
 爺さんは、竹竿を持ち出してきた。竹は先を割り石を噛まして荒縄で縛ってあった。実のついた枝に差し入れくるりと回すと、枝ごと上手に千切れてきた。
 「熟れたのだけ採れや、食べる分だけにしとき、誰ぞ、他に採る人もおるよってにな、残しとけ」
 正夫、12才。
  以来、山桃は母の木であった。
 
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